西川古柳座について

西川古柳座の前身は,瀬沼時太郎(二代目西川古柳)が、十八、九歳の頃,初代西川古柳に弟子入りしたことから始まります。大正末から昭和初期にかけて、三田村鳶魚、平音次郎、河竹繁俊らの支援を受けました。

はじめは、「西川連中」という名称を使って興行していたようですが,昭和十三年の時太郎の記録では既に「八王子車人形」の呼称を使っています。古柳座の芸能は,初代西川古柳や、江戸の最後の人形遣い吉田冠十郎、文楽の吉田文昇らの指導を受けています。さらに、伝統的な車人形の操法を基礎として、新鮮な工夫を重ね,昭和五十六年には乙女文楽の技法を取り入れた「新車人形」を考案しました。また、技法のみならず、首や自由民権関係の衣装を始め,豊富な用具を多数保有しています。さらに古柳座独自の用具なども考案して新作の上演も可能にしています。

こうした様々な工夫を凝らし,伝統的な人形芝居を伝承するとともに,西川古柳座は日本各地、さらに諸外国にまで、車人形の技法を通じて、地域文化,日本文化のあり方を将来に示しています。

歴史

  文政8年(1825)に現在の埼玉県飯能市に生まれた初代西川古柳(にしかわこりゅう)(山岸柳吉)によって、江戸時代末に考案されました。

  文楽系の三人遣いを、「ろくろ車」と呼ばれる車をおさめた箱に腰掛けて操る一人遣いに改良しました。右手で人形の右手、左手で人形の左手と首、さらに指で目・口・眉まで動かします。人形が舞台に直接足をつけて演技が出来るため、独自の躍動感が生まれます。このような構造は世界でも類がないといわれています。
  平成8年(1996)には国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定されました。